富士吉田の歩み -歴史-
Pace of Fuji Yoshida −History−

遥か遠い1,500万年の昔、海の底であったこの地域は、その後の海底の隆起や火山活動によって大地となり富士山の原型ができあがりました。そして、人々の暮らしが始まりました。この地域の人々は富士山の噴火に立ち向かい、その中でも営々と耕地を切り拓き、生産活動に従事してきたのです。
■ 大地の形成 ■
 日本列島がまだ深い海の底だったころ、造山運動によってフォッサマグマという大きな亀裂が列島の中央部にできました。この裂け目に沿って活発な海底火山の活動が始まり、次第に海底を押し上げていきました。こうして人々の生活の舞台となる大地が形成されました。数十万年前の小御岳や愛鷹火山の噴火と、その後の古富士の噴火によって、現在のような大地が形成されたのです。
トップへ戻る
■ 原始/古代 ■
 日本列島の中でもっとも長く続いた文化は、旧石器時代です。この時代は氷河期にあたり、現在よりも気候が寒冷で、日本の南北が大陸と陸続きの時代でした。山梨県内では、この時期の遺跡はわずかに発見されていますが、石器や調理に利用した焼石などが確認される程度で、おそらく村の規模も小さく、移動を繰り返す暮らしが営まれていたものと考えられます。こうした時代の遺跡は、富士山の火山灰や溶岩の下に埋没している可能性が高いと思われます。
 今から1万円程前には、高度に発達した狩猟採集社会である縄文文化が成立しました。生活用具の中では土器が発明され、食生活を大きく発展させました。市域では新倉の池之元遺跡と大明見の古屋敷遺跡で早期の村が発掘調査されており、竪穴住居や縄文土器、石器などの生活用具が発見されています。また、池之元遺跡では、後期の敷石住居も発見されていて、富士山麓周辺における縄文文化の地域性を示す重要な資料といえます。
 その後、2,000数百年前に北部九州に稲作が開始されてから、米作りは急速に各地へ伝播しました。日本各地に農耕が根をおろした時代を弥生時代とよんでいます。米作りを東へとつたえたことを示す東海地方の弥生時代の土器が大明見の山ノ神戸遺跡から発見されています。それに続く古墳時代には、池之元遺跡でも遺物が発見されており、当時の村の姿や生活の様子を知ることができます。古墳時代後半期の遺跡は発見されていません。富士山の火山活動の影響が考えられます。
 平安時代になると、遺跡が一気に増加して、山間地にも拡散していきます。竪穴の住居は小規模で、飲食器では、土師器という素焼きの土器に加えて、灰釉陶器(はいゆうとうき)が移入され、次第にその比重が高くなりました。
トップへ戻る
■ 中世 ■
 河口湖辺の7ヶ村を大原七郷といい、小立の常在寺が所蔵する南北朝鮮時代の経典「円極実義下巻」奥書に大原荘がみえ、それは都留郡南部において知られる唯一の荘名です。市西北部の新倉も荘域に含まれていたとされます。大原とは、単に河口湖辺の地域を指すのみではなく、広く富士山北面の裾野一帯を包括する広域地名であったと考えられます。
 この時代は、熊野三山や伊勢神宮への参詣、富士山への信仰が広がりをみせました。富士山でいえば、山内への奉納物によって確認することができます。そして、吉田は登拝の拠点として賑わい始めます。遡って、鎌倉時代には新しい仏教が興隆して仏教を身近なものとしました。その背景には、宗教者の活発な布教活動があって、いくつかの宗派を代表する僧侶たちの足跡を当地にもみることができます。日蓮や遊行二世真教などの縁の寺院が鎌倉街道沿いに残されています。
トップへ戻る
■ 江戸時代の村 ■
 戦国の乱世後、徳川氏によって江戸幕府が開かれると、甲斐国東部のこの地域の村々は谷村(郡内)藩の支配下におかれ、寛永10年(1633)に藩主となった秋元氏は三代にわたってこの地域を統治しました。特に利水・治水事業を進めて、農業生産の向上や絹織物の奨励に力を注ぎました。
 山附きの村は、新田を求めて溶岩台地の開発を行って、新田村を分立させました。この時代になって初めて、剣丸尾や檜丸尾の溶岩台地を集落や耕地として利用できるようになったのです。中でも剣丸尾の水田化には新倉掘抜の水は欠かせないものでした。
トップへ戻る
■ 近代以降の発展 ■
 近代国家の幕開けである明治維新は、江戸幕府の倒壊を経て、新政府の樹立にいたる統一国家形式過程のことですが、鳥羽・伏見の戦いの後、上吉田の御師団有志は錦旗を奉じて倒幕のために出動し、官軍として公認をうけて蒼龍隊と命名しました。一方、幕府援護の浪士組に参加した志士たちもいて、彼らは新微組となって活躍しました。
トップへ戻る



富士吉田市歴史民俗博物館トップ | 富士吉田市の情報 | FUJIGOKO CYBER CITY