日々の暮らしと祭り -民俗-
It deifies with a daily life −Folk customs−

日常の生活は、労働を中心とした普段の日と、ハレ(晴れ)の日とに分けることができます。ハレとは祭礼や年中行事、冠婚葬祭などの特別な時間と空間を指し、それに対して、日常的な労働と休息をケ(褻)と捉えています。年に何度か訪れるハレの日は、日常生活にメリハリを与える役割を果たし、祭りを行うことによって、翌日から新たな気持ちで生産活動を営むことができると考えられてきました。
■ 信仰と祭り ■
 日常生活の平穏や家族の健康を祈り、農作物の豊作や商売繁盛を願う心は昔も今も変わりません。人間の力でかなえることができないこれらの願いを人々は神仏に託しました。神仏への祈願は、その時々に行われたり、毎年決まった日に行われたりしますが、これらの日を総称して晴れの日といいます。当地の代表的な行事に小正月の道祖神祭りやお山じまいの吉田の火祭りなどがあります。祭りには地芝居(歌舞伎)や人形芝居が行われました。
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■ 水掛麦の耕作 ■
 水掛畑に作る麦を水麦といいました。通常の畑に作る麦を岡麦といって、岡麦と水麦では品種に違いがありました。大麦は六角、穂長があり、小麦は一種類だったので特別な名前はなかったようです。水麦は岡麦に比べて粘りがあって美味しかったといいます。
 耕作は表面の土を柔らかくする程度でよいといいます。畝立ては下吉田の愛染あたりと小佐野では異なっていました。小佐野では東西方面に畝立てをします。畝は直線ではなく、緩やかな波状になるようにカーブして立て、畝のところどころをそれに直行するように細い木の枝で叩いて水の流れる窪みをつけます。麦の種は畝間に、秋の彼岸ころに蒔きつけます。畑の上端部に手溝とよばれる用水から水を引き込む窪みを掘ります。一旦手溝にたまって、そこからあふれた水は畑の表面を全体に覆って流れていきます。水見はきわめて重要な仕事です。寒が明けると水を掛けるのを止め、春になって穂が出る前に土寄せをして草を取ります。収穫は夏至が過ぎてからおこないました。
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■ 食生活 ■
 山梨県を代表する郷土食はホウトウです。これは小麦粉を使った食品で、日常の食事に食べてきました。三度三度のご飯に米を食べるようになったのは昭和30年頃からで、それ以前は、麦・粟・稗・トウモロコシなどの雑穀が主な食料でした。当地の人々も雑穀を中心とした食生活を続けてきました。これらを素材として調理に工夫をこらし、ヤキモチやオバクなどの食べ物を作ってきました。その代表がホウトウなのです。調理方法には、荒皮を剥いで粒にして食べる粒食と粉に挽いて食べる粉食とがありますが、粉にしての食べ方が発達しています。
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■ 水掛畑を作る小佐野の耕地 ■
 標高800メートル前後を測る高冷地である当地は、稲作に不向きな土地でした。畑作中心の農業をおこなってきました。富士吉田市上吉田の小佐野と通称される田園地帯は、かつて一面に水掛麦の畑が展開していた場所です。檜丸尾溶岩(西念寺丸尾)と城山丸尾に挟まれた北向き斜面地で、この中に桂川を分水した中沢川(小佐野川)が麻畑川、梅屋地川、清光院川などに分かれて網の目のように分流し、水掛畑を灌漑していました。明治20年頃には城山尻を東西に横切る小佐野道より道上(南側)は水掛畑であり、中でも字大久保は条件のよい場所でした。一方、道下(北側)は水田化が進行しています。耕地の両側を流下する丸尾は石だらけの場所であり、客土をしなければ耕地にできませんでした。主に道上を作っている新屋地区では、屋敷周りの蔬菜畑(そさいはたけ)に対して、この出作の耕地をヤマとよんでいます。現在は圃場整備されて旧観を留めませんが、明治・大正期の耕図をみると南北に細長い地割となっていました。
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